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人生のレールから外れた26歳のブログです。

【歴史】①西郷隆盛が変えた2人の人生「大山巌」編

今年の大河ドラマで主役になっている「西郷隆盛

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禁門の変から戊辰戦争江戸城無血開城、そして西南戦争と幕末から明治の初期まで活躍・有名な歴史上の人物です。

本もたくさん出ていて皆さんは上記のような華々しい活躍の西郷隆盛のイメージだと思います。

しかし上のような活躍もあるのですが、実は西郷隆盛は明治日本の救世主となる2人の人生を変えた人でもありました。

 

その2人が大山巌東郷平八郎という人物です。

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ともに薩摩藩出身の2人で、大山巌日露戦争時「満州軍総司令官」

東郷平八郎は「連合艦隊司令長官」と陸軍の総大将、海軍の総大将でした。

日露戦争を奇跡の勝利に導いた司令官の2人ですが、西郷隆盛の言葉が無ければ司令官の位置どころか軍人ですらなってなかったでしょう。

 

大山巌西郷隆盛のいとこで、いわば身内の人でした。

2代総理大臣黒田清隆と共に砲術を学び、戊辰戦争では「弥助砲」といわれる大砲を設計し会津戦争など東北の戦いで大きな戦果を上げました。

その後西郷隆盛と共に明治政府では陸軍に入り留学をしていた時、政争に敗れた西郷が鹿児島に下野します。(征韓論争)

この報を聞いた大山はすぐさま帰国して、西郷の説得をする為に鹿児島へと向かいます。西郷を父、兄のように慕っていた大山は説得もしつつむしろ西郷と共に下野することも考え一緒に行動したいと言います。

この時大山は一緒に行動させてくれると思ったことでしょう。しかし西郷の言葉は大山の思っている事とは180度も違う言葉でした。

「お前は日本のこれからに必要な人材だ、陛下の役に立たなければならない、おいの役には立たんでもいい。すぐ東京へ帰れ!」と普段怒ることが無かった西郷が怒鳴って伝えたといいます。

この言葉を聞き大山は不本意ながら東京へと戻り、西南戦争では、最後の城山の攻撃の指揮官として西郷隆盛を自刃に追い込みました。

このショックで大山はおしゃべりな性格から一転寡黙になってしまい、元気を失ってしまいました。

しかし翌年その姿を見た明治天皇が大山に対して「西郷亡きあと、私はその方を西郷の身代わりに思うぞ」と声をかけたそうです。

ショックに打ちひしがれていた大山は涙を流したと伝わります。そして兄である西郷隆盛の意思を継いで生きようと考えます。

その後日清戦争では、第二軍司令官として活躍。そして日露戦争では満州軍総司令官として陸軍の総大将として戦います。

しかし大山巌は総大将といいながらも作戦や戦術等は部下の児玉源太郎始め参謀達に任せ決して口を出すことはありませんでした。しかし責任はすべて取るとだけ伝えたといいます。

この時の行動はまさに西南戦争時の西郷隆盛が行った事と同じものでした。

戦争中ロシア軍の猛攻で司令部が混乱している時「大砲がすごいなっちょりもすのー

今日はどこでいくさしちょるごわすか?」と笑いながら皆に語りかけました。

切羽詰っていた司令部はこの言葉に笑い、緊張がほぐれ皆が落ち着きを取り戻したといいます。こういうユーモアさも兄と慕う西郷から学んだのかもしれません。

 

日露戦争後は公爵、元帥と最高の栄誉をもらいましたが、決して威張るようなことは無かったといいます。(この辺は山県有朋と真逆でしょう)

 

もしあの時西郷隆盛が大山を引き連れていたら、大山巌は戦死して恐らく日露戦争での勝利はありえなかったと思います。大山巌の将来性、非凡さを誰よりも知っていた西郷だからこそできた決断だったのかもしれません。

人の言葉1つで人生は変わるといいますが、本当にこの事を見ると頷きざるを得ません。それどころか国の将来も変えた西郷隆盛

こういうところもしっかり評価されるといいのかなと思います。

 

明日以降②では東郷平八郎を書いていきます!